100名城攻略記№53 二条城(京都市中京区)
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■ 築城の経緯
慶長6(1601)年に徳川家康が天下普請により造営を開始し、2年後の慶長8(1603)年に完成した。同年に征夷大将軍に任ぜられた家康は、参内拝賀の後に二条城で猿楽を催し、公卿・大名等を饗応した。当初の二条城は、現在の二の丸部分に造営された単郭式の城で、天守は北西部にあった。家康時代に築かれた石垣は、二条城付近の堀川の護岸に一部残っている(写真)。
慶長10(1605)年には、勅使が二条城に赴き、徳川秀忠の将軍宣下の儀が行われた。慶長16(1611)年には、家康と豊臣秀頼が二条城で対面した。
寛永元(1624)年には、後水尾天皇行幸のために大改修が行われ、本丸を二の丸が囲む輪郭式となった。寛永3(1626)年、将軍・徳川家光、大御所・秀忠が上洛し、行幸が行われた。後水尾天皇は二条城に5日間滞在し、天守に2度上った。
行幸後、二の丸にあった行幸御殿が仙洞御所に移された。寛永11(1634)年に家光が再度上洛して以降は、将軍の上洛が途絶え、城内の建物の一部は、東福門院御所、後水尾天皇の女三の宮御殿、九条家、知恩院などに移築された。
■ 地形・縄張り
本丸の周囲を二の丸が取り囲む輪郭式の平城。二の丸の北中仕切門・南中仕切門より西側を西の丸と呼ぶ場合もある。本丸の東側と二の丸の間には、かつて2階建ての木橋が架かっており、本丸櫓門に接続していた。本丸の西側には、外桝形となった本丸西門があった。
二の丸の東大手門や北大手門は櫓門形式となっているが、枡形はない。東大手門は、行幸時に1重の門に建て替えられ、現在の櫓門(写真)は寛文2(1662)年ごろの建築という。寛永年間の修築部分にある西門は埋門形式となっており、枡形を持つ。
築城当初は、現在の二の丸東側のみの単郭式で、防備のための設備も少なく「二条新屋敷」などと称された。寛永年間の修築により、輪郭式となり、桝形が設けられるなど、やや防備に配慮した形となった。
■ 特徴的な建造物
本丸には本丸御殿が造営され、西南に5重天守、西北に3重の隅櫓、東北と東南に2重の隅櫓があった(写真は天守台)。寛永年間に建てられた天守は廃城となった伏見城からの移築と言われ、それ以前に現在の二の丸北西部に建てられていた天守は、淀城に移されたとされる。天守は寛延3(1750)年の落雷で焼失し、本丸御殿と3基の隅櫓は天明8(1788)年の大火で焼失した。
1884(明治27)年には、旧桂宮邸が移築され、現在の本丸御殿となっている(重要文化財)。この建物は、もとは弘化4(1847)年に京都御所今出川門内に建てられた旧桂宮邸で、嘉永7(1854)年から安政2(1855)年までは孝明天皇の仮皇居、安政7(1860)年から文久元(1861)年までは皇女和宮の御殿として使われていた。本丸御殿は、玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁の間から成り、御常御殿の一部は2階建てとなっている。
二の丸には、寛永3(1626)年の後水尾天皇行幸に合わせて改修された二の丸御殿の建物が残り、国宝に指定されている。二の丸御殿は、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院で構成され、障壁画は狩野探幽などの狩野一派が手掛けた。二の丸御殿の北には、台所・御清所が残っており、重要文化財に指定されている。
二の丸の西南部に建てられていた行幸御殿の建物は、寛永4(1627)年に仙洞御所に移築されたが、のちに焼失した。伏見城から移されたと言われる行幸御殿の唐門は、金地院崇伝に与えられて南禅寺金地院に移され、さらに豊国神社に移築された(写真)。
二の丸の周囲には、5基の隅櫓が建てられ、そのうち、東南隅櫓と西南隅櫓の2基が現存している(重要文化財)。
そのほか、本丸櫓門、二の丸御殿唐門、東大手門、北大手門、西門、鳴子門、桃山門、北中仕切門、南中仕切門、土蔵3棟などが現存し、重要文化財に指定されている。このうち、東大手門は、寛文2(1662)年に再建されたもので、その他の建物は、寛永2(1624)年~寛永3(1625)年の間に整備された。また、二条城内にあった三笠閣は、老中・稲葉正則の江戸屋敷に移築され、現在は聴秋閣として、三渓園(横浜市中区)に残っている(重要文化財)(写真)。
■ 歴代城主
●徳川氏
二条城代、二条在番が置かれた。
■ 戦いと廃城の経緯
文久3(1863)年になり、将軍・徳川家茂が229年ぶりに上洛し、二条城に入った。将軍徳川慶喜は、慶応2(1866)年に二条城で将軍宣下を受け、翌慶応3(1867)年には、二の丸御殿大広間に在京の各藩士を集め、大政奉還を宣言した。
明治4(1871)年には、京都府庁が二の丸に移された。1873(明治6)年の存城廃城令では存城として陸軍省所管となり、1884(明治17)年には二条離宮となって宮内省所管となった。翌1885(明治18)年には京都府庁が現在地に移転した。
その後、二の丸御殿の修理や塀の撤去が行われ、御殿内には絨毯が敷かれた。離宮時代の二条城には、ロシアのニコライ皇太子や、オーストリアのフランツ・フェルディナント皇太子などが訪問している。
1894(明治27)年には、旧桂宮邸が本丸内に移築された。1915(大正4)年には、大正天皇即位後の大饗の場として、二の丸御殿の北側に饗宴場が建てられた。1939(昭和14)年には、京都離宮は、京都市に下賜され、翌1940(昭和15)年から一般に公開された。
■ 攻略記(2024年12月1日)
10時過ぎに嵯峨野線の二条駅で降り、城に向かって歩いていくと、大学寮跡や神泉苑の境界の表示があって、平安京の痕跡が垣間見られる。
二条城外堀に沿って歩く。2重の西南隅櫓(写真)は、幕府の城らしく白く塗籠られて上層には長押型が付く。西面には唐破風が1つ付いている。
堀が途中でクランク状に折れているところがある(写真)。そこから西側は少し石垣が高くなっており、寛永年間に修築された部分のようだ。石垣の積み方も東西で少し違っていて、東側の方は比較的整然とした布積みであるのに対し、西側は若干乱れた積み方になっている。
東南隅櫓(写真。右奥は東大手門)は、西南隅櫓と同じ2重櫓だが、やや大きく、破風の形も千鳥破風になっている。東大手門は、やはり同じ幕府の城である江戸城の門と似ているが、格子窓に庇が付き、柱に華やかな金色の金具が付いているのは、江戸城と少し異なっているようだ。
門内には大番所の建物が残っている(写真。右は東大手門)。この大番所は一般公開用の受付や管理施設として残ったもので、昭和40年代に江戸時代の姿に復元された。城内には他にも多数の番所があったが、この大番所以外は撤去された。
柱の上に彫刻が施された豪華絢爛な唐門(写真)を入ると、国宝の二の丸御殿に行けるが、10時半に本丸御殿見学の予約をしているので、唐門前を素通りし、本丸の方に続く正面の屏重門をくぐる。
南側には高麗門形式の南門があるが、この門は江戸時代からあるものではなく、大正天皇の即位の礼の饗宴のときに造られたものである。内堀まで進むと、手前に本丸東南隅櫓の跡、奥には天守台が見える(写真。左奥が天守台。右は本丸櫓門)。
右に曲がって、桃山門を入る。桃山門は、行幸時の建物を改造して長屋門形式にしたものと考えられている(写真)。
内堀の橋を渡り、本丸櫓門(写真)をくぐる。もとは2階に天皇が通る廊下橋が接続されており、その跡が塗籠られていて窓がないため、なんだかのっぺらぼうのように見える。門内には2階に上がる階段がある。
石垣の間を通ると本丸である。右手に2階建ての本丸御殿、左手に本丸庭園がある。本丸庭園(写真)は、1896(明治29)年に明治天皇の指示により作庭されたもので、天皇は、本丸御殿の2階から植栽の指示を出したそうだ。
旧桂宮邸を移築した本丸御殿(写真)は、耐震性に問題があるということで、2007(平成19)年から公開が停止されていたが、今春から再公開された。本丸御殿は、弘化4(1847)年の建物で、江戸初期に建てられた他の建物と違って桟瓦葺きである。唐破風のついた玄関から中に入ると、玄関付近は絨毯敷きとなっている。案内があるまでしばらく待機した後、公卿の間、殿上の間と呼ばれる部屋で、御殿内を紹介したビデオを見る。
廊下を伝っていくと、御書院がある。一の間から三の間までは、城の大広間のような部屋で、二の間と三の間は白壁だが、主の座る一の間だけは襖まで金箔貼りとなっている。代々の桂宮(八条宮)をはじめ、孝明天皇や皇女和宮がこの御殿の主となり、二条城に移された後も、明治・大正・昭和の各天皇がこの御殿を訪れた。
さらに進むと主が普段暮らした御常御殿がある(写真は御常御殿の外観)。本丸御殿では、時期ごとに見られる部屋が異なっていて、今は耕作の間と四季草花の間を公開していた。ただ、主の居室は松鶴の間、寝室は雉子の間なので、どちらかというとそちらを見たかった気がする。御常御殿には、緑青色の壁紙を貼った御化粧の間や、御湯殿もある。
御書院に戻って、春夏秋冬を表した4部屋や、一の間、二の間、三の間が続いた雲鶴の間を見る。御書院から廊下で接続された雁の間は家来が使用した部屋だそうだが、襖には、雁の水墨画が描かれている。雁の間からまた廊下を伝うと、御殿を一回りして玄関に戻ってきた。
本丸の西南隅にある天守台からは、いま内部を見てきた本丸御殿や本丸庭園が上から望める(写真)。明治天皇は、本丸御殿の2階から作庭の指示をしたというが、その270年前には、後水尾天皇がここに建っていた5重天守から京都の眺めを楽しんだ。
外桝形の石垣が残る本丸西門から二の丸に戻る(写真中央が本丸西門の外桝形。奥は天守台)。二の丸の西門は現存していて重要文化財となっているはずだが、城内からでは様子が分からない。
本丸西門の北には、米蔵だった土蔵(写真)が残っており、その瓦には葵の紋が付いている。現存する土蔵は3棟だが、江戸時代の二条城には10棟の土蔵があったという。内堀の北側に沿って歩いていくと、本丸西北隅櫓や東北隅櫓の石垣が見える。
その途中に、両側を土塁に挟まれた北中仕切門がある(写真)。棟より南側の屋根は短く、北側は長くなっており、こうした造りを招造というそうだ。中仕切門は南北にあって、外堀がクランク状に折れている個所に対応している。
その先、北側には清流園という庭園がある。1965(昭和40)年に造られたもので、2棟の建物の部材や、庭石、樹木の多くは、豪商・角倉家の屋敷跡から譲り受けたものだそうだ。家康時代の天守は、この清流園の西側にあったはずである。北側には、北大手門が見えているが(写真)、立入禁止になっていて、近づくことはできない。
いよいよ国宝の二の丸御殿(写真)を見る。中学生のころだったか、初めてここに来たときは、城といえば「天守閣」だと思っていたので、少しガッカリした記憶があるが、江戸時代の実際の機能としては、天守より御殿の方がはるかに重要である。
入口の車寄を入ると、来殿者が控える遠侍があり(写真奥)、襖には竹林群虎図が描かれている。名古屋城の本丸御殿でも車寄を入った玄関には虎が描かれていた。いずれも虎とともに豹が描かれているが、当時の人は虎と豹を同種の動物と捉えていたそうである。
続いて、将軍への用向きや献上品を取次ぐ式台の間がある。式台の間には、その先の大広間と同様に松が描かれている。大広間は、最も格式の高い部屋で、一の間、二の間では、大政奉還の様子が人形で再現されている。三の間の襖には松とともに孔雀が描かれていて、その上には、孔雀が大きく透かし彫りされた欄間があった。大広間には、名古屋城本丸御殿にもある花熨斗型という巨大な釘隠しの金具が付いている(写真は大広間の外観)。
蘇鉄の間を経て、桜が描かれた黒書院があり(上の写真の左奥は黒書院の外観)、その先には水墨画が描かれた白書院がある。同じ名前の部屋を持つ江戸城の本丸御殿もこのような様子であったのだろうかと思う。ただし、江戸城の場合は、手前が白書院、奥が黒書院で、なぜか二条城とは逆になっている。また、江戸時代、二条城の白書院は「小広間」、黒書院は「御座の間」と呼んだそうだ。
二の丸御殿にある障壁画は複製で、本物は展示収蔵館にある。ただし展示されているのは、ごく一部で、この日は、中国の西湖の風景を描いた、白書院の障壁画が展示されていた。
最後に二の丸庭園を見る(写真。左の建物は大広間)。小堀遠州が天皇の行幸に合わせて作庭したものといい、多くの岩を配して、蓬莱山と鶴亀の島を表しているそうだ。
■ 関係する城
二条城(二条御所)(京都市上京区):永禄12(1569)年に織田信長が将軍・足利義昭のために築いた。将軍・足利義輝が殺害された屋敷跡にあり、現在の京都御苑の西南部から烏丸通りの西側に広がっていた。天正元(1573)年になると義昭と信長は対立し、その後、信長により旧二条城は破却された。
二条城(二条新御所)(京都市中京区):天正4(1576)年に信長が二条晴良から屋敷を譲り受け、村井貞勝に命じて自身の宿舎として整備させた。主殿は、松永久秀の居城だった多聞山城(奈良県奈良市)から移したという。天正7(1579)年に、信長は二条新御所を皇太子・誠仁親王に献上したが、天正10(1582)年の本能寺の変のとき、信長の子・信忠が明智光秀と戦い、二条新御所は焼失した。二条大路(二条通)の南側、烏丸通の西側にあった。
聚楽第(京都市上京区):天正15(1587)年に関白・豊臣秀吉が造営し、それまでの妙顕寺城(京都市中京区)から京都での本拠を移した。秀吉が関白の位を甥・秀次に譲るとともに聚楽第も秀次のものとなったが、秀次が高野山に追放されると、聚楽第は徹底的に破壊された。
伏見城(京都市伏見区):文禄元(1592)年に豊臣秀吉が隠居城として築く(指月伏見城)。文禄5(1596)年の慶長伏見地震で倒壊後、近くの木幡山に新たに建て直され(木幡山伏見城)、秀吉はこの城で没した。関ヶ原の戦いの前には、徳川家康の家臣・鳥居元忠が入っていたが、石田三成の攻撃により落城した。家康は伏見城を再建し、伏見城で将軍宣下を受けた。しかし、慶長12(1607)年に家康は駿府城に移り、伏見城は、元和5(1619)年に廃城となった。廃城後、天守は二条城に移され、その他の建物は、福山城、淀城などに移築された。主郭部分は、明治天皇の伏見桃山陵となった(写真は伏見桃山陵)。
■ 参考文献
恩腸元離宮二条城事務所『恩賜元離宮二条城』1941(https://dl.ndl.go.jp/pid/1058850)
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