100名城攻略記№30 高遠城(長野県伊那市)
(100名城攻略記目次:http://yagopin.g1.xrea.com/town/meijo/00.htm)
■ 築城の経緯
正平年間に諏訪氏一族の高遠信員が築いたと言われ、以降、高遠氏7代の居城となった。
天文14(1545)年に高遠頼継が武田晴信(のちの信玄)に降伏して以降は、武田氏の城となり、晴信の命によって秋山虎繫が改修した。山本勘助が縄張りを担当したとも伝わる。
天正10(1582)年、武田勝頼の弟・仁科盛信が城主のとき、織田信長軍に攻められて落城した。江戸時代には譜代大名の居城となり、元禄4(1691)年以降は内藤氏が城主となった。
■ 地形・縄張り
三峰(みぶ)川と藤沢川の合流地点に位置する平山城。三峰川の断崖を背に本丸を築き、本丸東側の本丸門を出ると、二の丸があった。二の丸北側の二の丸門を出ると三の丸があり、三の丸の西側には大手門、東側には搦手門があった。大手門・搦手門・二の丸門・本丸門は、櫓門となっていた。
大手門には、石垣で枡形が築かれ、城下町へ下る殿坂が続いていた。搦手門の2階には時を告げる太鼓が置かれ、門の外側は武家屋敷となっていた。当初、大手は東側にあり、江戸時代初期(鳥居氏の時代か)に西側に変更されたと伝えられる。
本丸・二の丸の南には、笹曲輪、南曲輪、法幢院曲輪があった。南曲輪には庭園や茶室があり、法幢院曲輪には法幢院という寺院があったが、法幢院は文禄元(1592)年に城外へ移り、現在は桂泉院となっている。西には、山本勘助の名を冠した勘助曲輪があった。曲輪の間は空堀と土塁で隔てられ、空堀は薬研堀となっていた。
■ 特徴的な建造物
本丸には本丸御殿があり、南東、南西、北西の隅に二階建ての櫓3棟があった。
二の丸には、馬場、武具蔵、米蔵、厩などがあり、三の丸には、重臣の屋敷があったほか、万延元(1860)年には、家老の空き屋敷を利用して、藩校進徳館が開かれた。進徳館の一部が現存する。
■ 歴代城主
●高遠氏
高遠信員:諏訪神社大祝である諏訪氏の一門で、諏訪頼継または継宗の子と言われる。
高遠頼継:諏訪氏当主の諏訪頼重と対立し、武田晴信が諏訪氏を滅ぼすのに協力した。その後、晴信と対立し、天文14(1545)年に、高遠城を晴信に攻められて降伏した。天文21(1552)年の下伊那攻めの際に自害させられた。
●武田氏
秋山虎繁:武田晴信(信玄)から伊那の支配を任され、当初高遠城に入り、のちに信濃飯田城から信濃大嶋城に移ったとされる。織田信長の叔母のおつやの方が城主を務めていた岩村城を開城させ、おつやの方と結婚した。しかし、長篠の戦いの後に織田軍に岩村城を包囲されて降伏し、おつやの方とともに長良川で逆さ磔の刑に処された。
諏訪勝頼:武田信玄の子。当初は母方の諏訪氏を継いだが、兄・義信が信玄に謀反を起こして廃嫡されたため、代わって武田氏を継いだ。
武田信廉:元亀2(1571)年~天正9(1581)年。武田信玄の弟。信玄に追放された父・信虎が信玄の死後に帰国した際には、高遠城に信虎を住まわせ、信虎像を描いた。武田氏滅亡にあたり残党狩りに遭って殺害された。
仁科盛信:天正9(1581)年~天正10(1582)年。信玄の子、勝頼の弟で仁科氏を継いだ。織田信長の子・信忠の軍勢に高遠城を落とされ、自刃した。
●保科氏
保科正直:天正10(1582)年~天正18(1590)年。保科氏は、もとは高遠氏の家臣で、高遠氏が滅ぶと武田氏の家臣となった。保科正直は、高遠城が織田信忠に攻撃された際、織田方に寝返ろうとしたが、連絡が間に合わず、上野箕輪城に逃れた。本能寺の変後に北条氏に従い、高遠城を奪取した。その後、徳川家康に仕え、家康の関東移封に際して下総多胡に1万石を与えられた。
保科正光:慶長5(1600)年~寛永8(1631)年。家康の関東移封後、高遠城には毛利長秀(秀頼)、京極高知の代官が置かれていたが、関ヶ原の戦い後に正直の子の正光が旧領の高遠に戻された。
二の丸には、馬場、武具蔵、米蔵、厩などがあり、三の丸には、重臣の屋敷があったほか、万延元(1860)年には、家老の空き屋敷を利用して、藩校進徳館が開かれた。進徳館の一部が現存する。
■ 歴代城主
●高遠氏
高遠信員:諏訪神社大祝である諏訪氏の一門で、諏訪頼継または継宗の子と言われる。
高遠頼継:諏訪氏当主の諏訪頼重と対立し、武田晴信が諏訪氏を滅ぼすのに協力した。その後、晴信と対立し、天文14(1545)年に、高遠城を晴信に攻められて降伏した。天文21(1552)年の下伊那攻めの際に自害させられた。
●武田氏
秋山虎繁:武田晴信(信玄)から伊那の支配を任され、当初高遠城に入り、のちに信濃飯田城から信濃大嶋城に移ったとされる。織田信長の叔母のおつやの方が城主を務めていた岩村城を開城させ、おつやの方と結婚した。しかし、長篠の戦いの後に織田軍に岩村城を包囲されて降伏し、おつやの方とともに長良川で逆さ磔の刑に処された。
諏訪勝頼:武田信玄の子。当初は母方の諏訪氏を継いだが、兄・義信が信玄に謀反を起こして廃嫡されたため、代わって武田氏を継いだ。
武田信廉:元亀2(1571)年~天正9(1581)年。武田信玄の弟。信玄に追放された父・信虎が信玄の死後に帰国した際には、高遠城に信虎を住まわせ、信虎像を描いた。武田氏滅亡にあたり残党狩りに遭って殺害された。
仁科盛信:天正9(1581)年~天正10(1582)年。信玄の子、勝頼の弟で仁科氏を継いだ。織田信長の子・信忠の軍勢に高遠城を落とされ、自刃した。
●保科氏
保科正直:天正10(1582)年~天正18(1590)年。保科氏は、もとは高遠氏の家臣で、高遠氏が滅ぶと武田氏の家臣となった。保科正直は、高遠城が織田信忠に攻撃された際、織田方に寝返ろうとしたが、連絡が間に合わず、上野箕輪城に逃れた。本能寺の変後に北条氏に従い、高遠城を奪取した。その後、徳川家康に仕え、家康の関東移封に際して下総多胡に1万石を与えられた。
保科正光:慶長5(1600)年~寛永8(1631)年。家康の関東移封後、高遠城には毛利長秀(秀頼)、京極高知の代官が置かれていたが、関ヶ原の戦い後に正直の子の正光が旧領の高遠に戻された。
保科正之:寛永8(1631)年~寛永13(1636)年。将軍・徳川秀忠の子。正光に預けられ、その養子とされる。出羽山形へ移封(写真は高遠町歴史博物館にある像)
●鳥居氏(3万2000石)
鳥居忠春:寛永13(1636)年~寛文3(1663)年。出羽山形城主(22万石)だった兄の忠恒は、嗣子なく改易されたが、祖父・元忠の功績が考慮されて、忠春に改めて高遠城が与えらえた。悪政により農民の逃散を招き、最期は侍医により殺害された。
鳥居忠則:寛文4(1664)年~元禄2(1689)年。家臣の罪に連座して閉門となり、死去した(自害とも言われる)。鳥居氏は再び改易となったが、子の忠英は改めて能登下村1万石を与えられた。
●内藤氏(3万3000石)
内藤清枚(きよかず):元禄4(1691)年~正徳4(1714)年。河内富田林から入封。元禄12(1699)年、江戸中屋敷の敷地の一部を返上して甲州街道の新たな宿場町が開設されることになり、内藤新宿と名付けられた。正徳4(1714)年には、江島生島事件が起き、江戸城大奥御年寄だった江島(絵島)が高遠へ配流となっている。
内藤頼卿(よりのり):正徳4(1714)年~享保20(1735)年
内藤頼由(よりゆき):享保20(1735)年~安永5(1776)年。信濃飯山藩主・永井直敬の子で頼卿の養子となった。
内藤頼尚(よりたか):安永5(1776)年~安永5(1776)年。越後村上藩主・内藤信興の子で頼由の養子となった。
内藤長好:安永5(1776)年~寛政3(1791)年
内藤頼以(よりもち):寛政3(1791)年~文政3(1820)年
内藤頼寧:文政3(1820)年~文久2(1862)年。若年寄に就任する。藩政では、産業や学問を奨励し、軍備を洋式に改めた。多才で、釣りを趣味としたほか、書画・謡曲・能楽・茶道にも通じていた。
内藤頼直:文久2(1862)年~明治4(1871)年。戊辰戦争では官軍につき、賞典金2000両を下賜された。
■ 戦いと廃城の経緯
諏訪氏当主の諏訪頼重と対立していた高遠頼継は、武田晴信が諏訪氏を滅ぼすのに協力し、宮川以西の諏訪領を得た。さらに頼継は、諏訪領全体を得ようとして晴信と対立したが、天文14(1545)年、雨の中、杖突峠を越えた武田軍に高遠城を攻められて降伏した。
天正10(1582)年、武田勝頼の弟・仁科盛信が3,000の兵とともに籠る高遠城は、織田信長の子・信忠の軍勢50,000に攻撃されて落城した。『信長公記』によると、森長可、団忠直、毛利長秀、河尻秀隆の軍勢が川の浅瀬を渡って大手を攻め、信忠は山の尾根続きに搦手から攻めたとある。大手を攻めた森長可らの軍勢は、武田氏のもとから離反した伊那の領主・小笠原信嶺が案内した。
諏訪氏当主の諏訪頼重と対立していた高遠頼継は、武田晴信が諏訪氏を滅ぼすのに協力し、宮川以西の諏訪領を得た。さらに頼継は、諏訪領全体を得ようとして晴信と対立したが、天文14(1545)年、雨の中、杖突峠を越えた武田軍に高遠城を攻められて降伏した。
天正10(1582)年、武田勝頼の弟・仁科盛信が3,000の兵とともに籠る高遠城は、織田信長の子・信忠の軍勢50,000に攻撃されて落城した。『信長公記』によると、森長可、団忠直、毛利長秀、河尻秀隆の軍勢が川の浅瀬を渡って大手を攻め、信忠は山の尾根続きに搦手から攻めたとある。大手を攻めた森長可らの軍勢は、武田氏のもとから離反した伊那の領主・小笠原信嶺が案内した。
明治5(1872)年に建物は払い下げられ、翌1873(明治6)年までにすべての建物が撤去された。明治8(1875)年には城跡を公園として整備することが決まり、本丸・笹曲輪・南曲輪・勘助曲輪が公園となった。明治9(1876)年には、桜の木が植樹されて、現在も高遠城址公園は桜の名所となっている(写真)。
三の丸には、高遠高等学校が建設され、勘助曲輪と三の丸との間にあった鍛冶堀が埋められて、勘助曲輪はグラウンドになった。高遠高等学校は、1984(昭和59)年に移転して、跡地は観桜広場や駐車場となっている(写真)。
殿坂の上にある大手門の跡には枡形の石垣が残る。大手門は、もとは櫓門だったようだが、切り詰められて薬医門のようになっている(写真)。1984(昭和59)年まで近くにあった高遠高等学校の門として使われており、今も残っているが、屋根が少し傾いて危なげに見える。
三の丸跡を東に進むと、茅葺きの藩校・進徳館の建物が残っている(写真)。教場には、江戸の昌平坂学問所に倣って、孔子と四賢人の像が祀られている(本物は高遠町歴史博物館にある)。江戸時代には八ツ棟造りで20ほどの部屋があったそうで、その後に増改築されたり撤去されたりしたため、現在の建物は、どこまで江戸時代のものなのかよく分からない。
三の丸の南側には、あまり深くない空堀があって、二の丸と隔てられている(写真右が三の丸、左は堀を挟んで二の丸)。堀の三の丸側には車道が通っているので、江戸時代以前とは高さが異なっているのかもしれない。この道路は搦手門跡に続いている。
二の丸門の跡から二の丸に入る。今は土橋となっているが、かつては木橋が架かっていて、冠木門と櫓門の間に桝形があった。二の丸の左手には、赤い屋根の大きな建物が建っている。この建物は、1936(昭和11)年に建てられた「高遠館」という会館で、国の登録有形文化財となっている(写真)。
二の丸の東側には土塁が残っていて、土塁上から見ると、三の丸との間には深い空堀がある(写真)。西側に見える桜雲橋を渡り、問屋門をくぐって本丸に入る。桜雲橋の橋台や問屋門の付近には少し石垣が残る。高台となっている本丸からは、駐車場となっている勘助曲輪が下に見え、西の方角がはるかに見渡せる。
本丸の一角には、新城(盛信)神社・藤原神社があって、ここで自刃した仁科盛信や、江戸時代の城主・内藤氏が祖先とする藤原鎌足を祀っている。反対側の一角には、明治時代に時を知らせるために建てられた太鼓櫓(鼓楼)がある(写真)。
本丸からは、土橋で南曲輪に渡れるが、この土橋は廃城後に造られたもので、もともと本丸と南曲輪は、堀内道でつながっていた。南曲輪(写真)は、保科正之が母のお静と暮らしたところである。お静は、将軍・徳川秀忠の側室となって正之を産んだ。
法幢院曲輪の南側に下っていくと、高遠町歴史博物館があって、高遠城の模型や、長く城主を務めた内藤氏に関する展示品などがある。中には、正徳4(1714)年に、歌舞伎役者の生島新五郎と密会して江戸城の門限に遅れたとして高遠に永遠流となった大奥の大年寄・江島(絵島)の愛用品だった香炉・机・戸棚がある。博物館の裏手には、絵島の囲屋敷が復元されており、絵島が過ごした格子窓の中の8畳間をのぞくことができる(写真)。
■ 関係する城
福与城(長野県上伊那郡箕輪町):諏訪氏の一族・藤沢氏の居城。天文14(1545)年に高遠城が武田晴信により攻略された後も、信濃守護・小笠原長時の支援を得てもちこたえたが、長時の籠る竜ケ崎砦が晴信により陥落すると、城主・藤沢頼親は晴信と和睦し、福与城は焼却された。未訪問
福与城(長野県上伊那郡箕輪町):諏訪氏の一族・藤沢氏の居城。天文14(1545)年に高遠城が武田晴信により攻略された後も、信濃守護・小笠原長時の支援を得てもちこたえたが、長時の籠る竜ケ崎砦が晴信により陥落すると、城主・藤沢頼親は晴信と和睦し、福与城は焼却された。未訪問
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