府中から小平へ(「吉田初三郎の世界」展・武蔵国府跡と国分尼寺跡・鎌倉街道と姿見の池・ふれあい下水道館)

 今日は所用で外出したついでに府中市美術館で開催されている「吉田初三郎の世界」展に行く。「大正の広重」と呼ばれた吉田初三郎は、友禅の染付を学んだり、洋画家の鹿子木孟郎に師事したりして画家となり、大正から昭和にかけて、各地の鳥観図を多数手がけた。初三郎が着目されたきっかけは、皇太子(後の昭和天皇)が修学旅行で京阪電車に乗った際、初三郎が描いた「京阪電車御案内」を気に入って、学友に配りたいと言ったことだったそうだ。
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 初三郎の鳥観図の特徴は、テーマとなる鉄道や川をまっすぐ描き、主な施設を大きく、周囲はデフォルメさせ、見えるはずのない遠方まで表現しているところだった。初期のころはあまり遠くまで描かれていなかったが、だんだん地球規模に広がるようになって、京王線の案内図(上の写真の看板の絵)には、ハワイやサンフランシスコまで載っている。日本の植民地時代の朝鮮や、租借地だった大連の鳥観図もあり、ベルリンやアフリカ・南極まで描かれている図もある。
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 富士山は、だいたいどこの絵にもアイコンとして描かれており、なぜか木曽川の「日本ライン」もよく表示されているのは、関東大震災後、初三郎が日本ラインを望む愛知県犬山市に「蘇江画室」を構えたためのようだ。その後、初三郎は青森県八戸市の種差海岸を気に入って、種差海岸に「潮観荘」を建てて移り住んだ(写真は2019年に「潮観荘」跡を訪ねたとき(https://yagopin.seesaa.net/article/201902article_5.html)のもの)。
 これらの鳥観図を描くとき、初三郎は、現地に赴いて各地のスケッチをしていた。それから何度も修正を重ねて下絵を作成し、それを写し取って完成させた大きな肉筆画と、コンパクトに印刷したパンフレットなどを依頼元に納めていた。こうしたパンフレットが作れるようになったのは印刷技術が向上したためで、小田急は名刺にも初三郎の鳥観図を印刷していた。
 下絵の段階では、依頼元などがチェックして、正確な図となるようにしていた(ただ、その割には八王子が八王寺、飛騨が飛弾、三隈川が三隅川など、誤字が多いように見えた)。あまりに正確すぎて、軍部の検閲が入り、下関の図では一部分が白く消されており、旭川の図では第七師団が緑一色で塗られている。戦争中には、初三郎は熊本で空襲に遭って辛くも一命を取り止め、戦後には広島原爆の鳥観図を描いている。
 美術館内で写真撮影ができないのと、目が悪いせいでケース内の絵がよく見えなかったのが残念だったが、帰ってから調べてみたら、国際日本文化研究センターのサイトに初三郎のデータベースがあって(https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/)、美術館で見た鳥観図を改めてじっくり見ることができた。美術館には100件近い初三郎作品が並んでいて、ずいぶん集めたものだと思ったが、データベースにはそれどころではない数の作品が載っている。逆に美術館にあったけど、データベースには掲載されていないものもあり(鉄道旅行案内や原爆の図など)、初三郎の全作品数は未だ明らかでないようだ(1600とも3000とも)。
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 1時間半ほど美術館にいて、近くで昼食を取る。せっかく府中まで来たので、午後はシェアサイクルで史跡めぐりをすることにした。まずは、府中本町駅の近くにある武蔵国府跡に行く。「府中」の由来である武蔵国府跡は、大國魂神社の東側で国衙跡が発掘されているが、大國魂神社の西にあるこの場所は、国司館の跡である。国司が執務した正殿のほか、脇殿などいくつかの建物が発掘されており、建物跡に柱の表示があるほか、発掘された建物の10分の1模型が展示されている(写真)。ちょうど今、大河ドラマで紫式部が越前国府に行ったところなので、越前国府もこの模型のような感じだろうかと興味深く見る。また、ここは徳川家康が御殿を置いたところでもあり、家康は国府の跡であるこの場所に敢えて御殿を建てさせたという。
 国府跡からは府中街道を北に向かう。甲州街道を横断して北府中駅の近くには、府中刑務所がある。刑務所の北側には、1968(昭和43)年に三億円事件が発生した現場があるそうだ。三億円事件で被害に遭った現金は、東芝の従業員のボーナスだった(保険により翌日支給)。その東芝府中事業所は北府中駅の反対側にあり、東芝で過去に造られた古い機関車や、現在製造中の台湾向けの機関車が見える。
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 国分寺市に入ってから線路をくぐり、武蔵国分尼寺跡に行く。奈良時代、国分寺とともに建てられた国分尼寺は、東西約150m、南北160m以上の範囲に、南大門・中門・金堂・講堂・尼坊・鐘楼・経蔵などが建てられていたと考えられている。ここでは、中門・金堂・尼坊の跡が発掘されていて、金堂の基壇が復元されている(写真)。金堂の前には、のぼり旗を吊るした幢竿(どうかん)が建っていたと考えられる穴が見つかっている(写真の柱の位置)。
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 国分尼寺の裏手には、鎌倉街道と伝わる切通になった道がある。鎌倉街道には多くのルートがあるが、この道は、鎌倉から上州へと向かう鎌倉街道上道である。菅谷館にいた畠山重忠が鎌倉に通い、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたときに駆けた道であろう。この道を北に進み、西国分寺駅の先を東に行ったところには、姿見の池がある。ここは、畠山重忠と恋仲になった遊女・夙妻太夫(あさづまだゆう)が自ら命を断った場所という。
 また、この池の西側では、古代の東山道武蔵路の跡が調査されている。東山道は上野国新田駅から下野国足利駅へ続いていたが、その途中の上野国邑楽郡から南へ、武蔵国府に行くための道があった。この道を後世、東山道武蔵路と呼んでいる。東山道武蔵路は、国分寺市内で発掘跡が展示されており(https://yagopin.seesaa.net/article/201712article_10.html)、東村山駅の近くでも跡が見つかっている(https://yagopin.seesaa.net/article/202111article_1.html)。このあたりでは、東山道武蔵路と鎌倉街道は、少し離れたところを並行して走っていた。現代では、府中街道が同じような場所を通っていて、さらに新府中街道も建設中である。
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 府中街道に戻って、小平市に入った先には、小平市ふれあい下水道館がある。ここは、下水道について学べる施設で、地下5階まで下りると、なんと実際に使われている下水道(小平幹線)の中に入ることができる。下水道があふれたときのために厳重な扉が設置されている場所を過ぎると、円形の下水道の中に見学用の通路があるが、あまりの刺激臭に1分も耐えられずに出てきてしまった。ずっと昔にパリの古い下水道の中に入ったことがあるが、そのときはもっと広い空間だったためか、ここまで臭くなかった気がする。
 玉川上水に架かる久右衛門橋を渡り、津田塾大学の前を過ぎる。青梅街道を横断した先でシェアサイクルを返し、小川駅から帰宅した。
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