覚え書き(12)平家物語のあらすじ(その3):平家都落ち、木曽義仲、一ノ谷
(11)平家物語のあらすじ(その2):以仁王の令旨、頼朝挙兵、奈良炎上と清盛の死
■ 平家都落ち
今回も「平家物語」の続き。木曽義仲が5万の軍勢で京へ攻め上ると聞いて、平家はまず義仲を追討して、その後に頼朝を討とうと、寿永2(1183)年4月、維盛(重盛の長男)を大将軍に北陸道へ出兵した。西日本の兵は集まったが、東山道は美濃・飛騨までしか来ず、東海道の遠江以東、北陸道の若狭以北の兵は誰も来なかった(巻第七「北国下向」)。平家軍は、義仲側の越前国火打城を城内の味方の手引きで落とし、5月には加賀へ進軍した。加賀・越中国境にある砺浪山(石川県津幡町・富山県小矢部市)まで来ると、行く手に源氏の白旗が見えたので、「此山は四方巌石であんなり。搦手(後ろ側)へはよもまはらじ」と平家は考え、山中の猿が馬場に布陣したのだが、実はこれは義仲の計略だった(巻第七「火打合戦」「願書」)。
次第に暗くなってきたころ、山の南側・北側を迂回して平家の後ろに回った義仲の別動隊1万が、大きな音を立てながら攻め寄せてきた。平家は、「此山は四方巌石であんなれば、搦手よもまはらじと思ひつるに、こはいかに」と騒ぎ合ううちに、前からは義仲の本隊が鬨の声を上げて攻めかかってきた。前後から敵が攻めてくるので、平家は唯一敵の来ない倶利伽羅谷へと退却しようとする。「此谷の底に道のあるにこそとて、親落せば子も落し、兄落せば弟もつゞく。主落せば家子・郎等落しけり。馬には人、ひとには馬、落かさなり落かさなり、さばかり深き谷一つを、平家の勢七万余騎でぞうめたりける。巌泉血を流し、死骸岳をなせり」。谷に落ちた平家は7万騎が2000騎になり、大将軍の維盛も命からがら加賀へ戻った(巻第七「倶利伽羅落」)。ちなみに私が子どもの頃に読んだ学習漫画では、倶利伽羅峠の戦いのとき、義仲が牛の角にたいまつを付けて平家に向かわせていたが、その話は「平家物語」を脚色した「源平盛衰記」にあるそうだ。ただし実際には、そのように牛をけしかけるのは不可能であるという。
鞍馬寺
義仲の勢いは止まらず、加賀国篠原(石川県加賀市)でも平家に勝利して、比叡山も義仲に味方した。7月、義仲ばかりか摂津・河内からも源氏が都に攻め寄せると聞いて、清盛亡き後の平家の棟梁・宗盛(清盛の三男・前内大臣)は、「たゞ都のうちでいかにもならん(死んでしまおう)と人々は申あはれ候へ共、まのあたり憂き目を見せまゐらせむも口惜候へば、院(後白河法皇)をも内(安徳天皇)をもとり奉て、西国のかたへ御幸・行幸をもなしまゐらせて見ばやとこそ思ひなッて候へ」と、都落ちを決意する。ところが、この話が事前に漏れ、後白河法皇は夜のうちに御所を出て鞍馬山へと逃げてしまった。後白河法皇がいないことに気づいた平家は、「さりとては、行幸(天皇の遷座)ばかりなり共、なしまゑらせよ」と、早朝、6歳の安徳天皇を母親の平徳子(清盛の娘、建礼門院)とともに輿に乗せた。三種の神器はもちろん、「『印鑰、時の札(時刻を示す表示板)・玄上(琵琶)・鈴鹿(琴)なンどもとり具せよ』平大納言(平時忠、清盛の妻・時子の兄)下知せられども、あまりにあわてさわいで、とり落す物ぞおほかりける。日(昼間)の御座の御剣なンどもとり忘れさせ給ひけり」。清盛の婿である摂政藤原基通も出発したが、七条大宮に不思議な童子が現れ、「いかにせん藤のすゑ葉のかれゆくを たゞ春の日にまかせてや見ん」と歌うので、藤原氏の守護神・春日大明神が守ってくれていると、都落ちを思い直して北山の知足院に入った(巻第七「主上都落」)。
重盛の長男・維盛も妻(藤原成親の娘)・息子の六代(10歳)・娘(8歳)と別れて屋敷を出ようとした。「中門の廊に出て鎧とッて着、馬ひきよせさせ既に乗らんとし給へば、若公・姫君はしり出でて、父の鎧の袖、草摺に取つき、『是はさればいづちへとてわたらせ給ふぞ。我も参らん、われもゆかん』とめんめんにしたひなき給ふにぞ、浮き世のきづなとおぼえて、三位中将(維盛)いとゞせんかたなげには見えられける」(巻第七「維盛都落」)。維盛はだいぶ遅れて一門に合流したので、重盛の一族は来ないのではないかと疑っていた宗盛が「いかにや、今まで」と聞くと、維盛は「をさなきもの共があまりにしたひ候を、とかうこしらへおかんと遅参仕候ぬ」と答えた。宗盛が「などや心づよう六代どのをば具し奉給はぬぞ」と問いかけるのに対し、維盛は「行すゑとてもたのもしうも候はず」と、そんなことを聞かれて余計に悲しくなった(巻第七「一門都落」)。なお、維盛以外の平家一門は妻子を連れての都落だったが、そのほかの人々は妻子を連れて行くわけにはいかず、みな生き別れになってしまった(巻第七「福原落」)。
愛知県蒲郡市にある藤原俊成像
清盛の末の弟・薩摩守忠度は、途中で引き返して、藤原俊成の屋敷を訪れた。俊成は歌人として有名で、息子は百人一首の選者として知られる藤原定家である。俊成の屋敷の人々は「おちうと(落人)帰りきたり」と騒いだが、俊成は「其人ならばくるしかるまじ。入れ申せ」と門を開けさせた。忠度は「一門の運命はや尽き候ぬ。撰集(勅撰和歌集)のあるべき由承候しかば、生涯の面目に、一首なり共、御恩をかうぶらうど存じて候しに、やがて世のみだれ出できて、其沙汰なく候条、たゞ一身の嘆と存る候。世しづまり候なば、勅撰の御沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙ッて、草の陰にてもうれしと存候はば、遠き御まもりでこそ候はんずれ」と言って、百首ばかりの歌が書かれた巻物を鎧の隙間から取り出した。俊成は「かゝる忘れがたみを給おき候ぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候。御疑あるべからず」と答えたので、忠度は喜んで「今は西海の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮世に思ひおく事候はず。さらばいとま申て」と馬に乗り兜の緒を締めて西へと去っていった。その後、世が静まって千載集を編む際に「さゞなみや志賀の都はあれにしを むかしながらの山ざくらかな」の一首が、「読人知らず」として入れられたということである(巻第七「忠教都落」)。
維盛も忠度も死を覚悟して都を離れたが、清盛の弟の頼盛(池大納言)は一人思惑を異にしていた。屋敷に火をかけて出た頼盛は、途中で「忘れたる事あり」と言って、平家の印の赤い布を切り捨て、都に引き返したのだった。頼盛の母・宗子(池禅尼)は、源頼朝が死刑になるところを清盛に歎願して助命した恩人だったため、頼朝も頼盛だけは特別扱いして「池殿(頼盛)の侍共にむかッて、弓ひくな」と言っていた。頼盛は「今は兵衛佐(頼朝)にたすけられんずるにこそ」とその頼朝の好意をあてにしたのである(巻第七「一門都落」)。
平家が都を出て行って、代わりに木曽義仲・源行家が後白河法皇を奉じて都に入った。故・高倉上皇の皇子のうち、安徳天皇とその下の弟(守貞親王)は平家に連れ去られたが、三番目と四番目の皇子が都に残っていた。5歳になる三番目の皇子は、法皇が「是へ是へ」と言っても人見知りしてむずかったが、4歳になる四番目の皇子は躊躇なく法皇の膝の上に乗ったので、法皇は涙を流して「是ぞ我まことの孫にてましましける」と、この皇子を天皇にした(巻第八「山門御幸」)。後に承久の乱で鎌倉幕府と戦い、隠岐に流される後鳥羽天皇である。
香椎宮
平家は福原の旧都を経て九州の太宰府に着いたが、緒方惟義という武士が平家に弓を引いたので、また太宰府を離れることになった。都への復帰を住吉神社(福岡市博多区)・筥崎宮(福岡市東区)・香椎宮(福岡市東区)・宗像神社(福岡県宗像市)に祈願しながら、小船に乗って長門国(山口県)に着き、ここで100艘ほどの大船に乗り換えて讃岐国屋島(香川県高松市)に渡った(巻第八「太宰府落」)。
■ 木曽義仲
8月、都では除目(人事異動)が行われた。平家の一門160人あまりは官職を奪われ、殿上人の資格を失った。主だった人々としては、従一位前内大臣の宗盛(清盛三男、屋島内大臣)、正二位権大納言の頼盛(清盛弟、池大納言)、従二位中納言の教盛(清盛弟、門脇中納言)、従二位権中納言の知盛(清盛四男、新中納言)、正三位参議の経盛(清盛弟、修理大夫)、正三位左近衛中将の重衡(清盛五男、本三位中将)、従三位右近衛権中将の維盛(重盛長男、小松三位中将)・資盛(重盛次男、新三位中将)らがいたが、正二位権大納言の時忠(清盛義兄、平大納言)は、安徳天皇と三種の神器の返還を求めるためそのままとされた。義仲は左馬頭兼伊予守になり、「朝日の将軍」という称号を与えられた(巻第八「名虎」)。
木曽義仲と巴御前(長野県木曽町の義仲館)
しかし、2歳から30歳まで木曽で育ったので、義仲の立居振舞いや話しぶりが洗練されていないのは、まったくいかんともしがたかった。あるとき、猫間光高という中納言が義仲に会いに来た。家来が「猫間殿の見参にいり、申べき事ありとて入らせ候」と言うと、義仲は「猫は人にげんざう(見参)するか」と大笑い。対面してからも「猫殿のまれまれわいたるに(珍しくおいでなのだから)、物(食事)よそへ」と猫呼ばわりをする。あまり体を動かさない貴族は、武士と違って昼食をとらないため、猫間は断ったのだが、義仲は意に介せず、「けどき(食事どき)にわいたるに、さてはあるべき」と、でっかいお椀にご飯を山盛りして、おかずが3品と平茸の汁が出てきた。猫間はお椀のでかさにげんなりして、箸をとって食べる真似だけしたのだが、義仲はそれを見とがめて「猫殿は小食におはしけるや。きこゆる猫おろし(猫が食べ物を残すこと)し給ひたり」などと言うので、猫間は用件も伝えられずに帰った。また、義仲は着慣れない装束を不格好に着て、宗盛が使っていた牛車に乗って出仕しようとしたが、牛に一鞭当てたところ牛車が急発進し、車の中で義仲はひっくり返って起き上がれない。日本では牛を去勢する習慣がなかったため、牛車はよく暴走したらしい。どうにか法皇の御所に着いて、車を降りるときには、義仲は車の後ろから降りようとする。牛車は、後ろから乗って前から降りるのだが、義仲は言っても聞かずに、そのまま後ろから降りてしまった(巻第八「猫間」)。
義仲は、水島と室山の2回の戦いで平家に敗れた上、都での義仲軍の素行の悪さが後白河法皇の不興を買うことになってしまった。逆ギレした義仲は、11月に法皇の御所である法住寺殿へ攻め込み、御所の守備兵をさんざんに打ち破った。義仲は「一天の君にむかひ奉て軍には勝ぬ。主上(天皇)にやならまし、法皇にやならまし。主上にならうど思へども、童にならむもしかるべからず。法皇にならうど思へども、法師にならむもをかしかるべし。よしよしさらば関白にならう」などと言う。このときの天皇は、まだ幼ない後鳥羽天皇だったので、義仲は、天皇になろうとして幼児になることはできないし、法皇になるために坊主になるのもおかしいと本気で言っているのである。「関白は大織冠の御末、藤原氏こそならせ給へ。殿は源氏でわたらせ給ふに、それこそ叶ひ候まじけれ」と文書係に言われて関白も諦めた義仲は、結局、後白河法皇の御厩の別当になり、丹後国を知行した。さらに義仲は、清盛の43人を上回る49人の公卿・殿上人を免職にし、また赦免するなど、やりたい放題なので、ついに頼朝は、弟の範頼・義経に義仲追討を命じた。義仲は平家に使者を送って「宮こへ御のぼり候へ。ひとつになッて東国攻めむ」と誘ったが、平家は拒否した。平家は西国、頼朝は東国、義仲は都でそれぞれ勝手に物事を進め、都に年貢が届かないので人々は困窮した(巻第八「法住寺合戦」)。
翌寿永3(1184)年1月、頼朝の差し向けた範頼・義経の軍勢が美濃・伊勢に着くと聞いて、義仲は宇治橋(京都府宇治市)・瀬田橋(滋賀県大津市)を守らせた。範頼・義経軍に従う梶原景季は、鎌倉を出る前に頼朝に名馬「いけずき」を所望したが、頼朝は「頼朝が乗るべき馬也。する墨もおとらぬ名馬ぞ」と言って、景季に「する墨」を与えた。ところがどうしたわけか頼朝は、暇乞いにやってきた佐々木高綱にはその「いけずき」を与えてしまった。駿河国まで来たところで、景季は、自分のもらえなかった「いけずき」に高綱が乗っていることに気づき、「おなじやうに召しつかはゝる景季を、佐々木におぼしめしかへられけるこそ、遺恨なれ。…こゝで佐々木にひッくみさしちがへ、よい侍二人死ンで、兵衛佐殿(頼朝)に損とらせたてまつらむ」と自暴自棄になった。景季はどうやって高綱と組討しようかと考えながら「いかに佐々木殿、いけずきたまはらせ給てさうな」と、高綱に声を掛けた。高綱は、そうか、景季もいけずきをほしがっていたのだな、と気づき、「いけずきを申さばやとは思へども、梶原殿の申されけるにも、御ゆるされないとうけたまはる間、まして高綱が申とも、よもたまはらじと思ひつゝ、…さしも御秘蔵候いけずきを、ぬすみすまいて(都に)のぼりさうはいかに」と、景季の顔を立てて「いけずき」を盗んだことにしたのだった。この答えに景季は急に機嫌がよくなり「さらば景季もぬすむべかりける物を」と大笑いして、この一触即発の危機は避けられた(巻第九「生ズキノ沙汰」)。なお、梶原氏は、坂東八平氏の一つで、景季の父・景時が石橋山の戦いで源頼朝を助けたことがきっかけで頼朝の腹心となった。近江源氏の佐々木氏は、高綱の兄・定綱の系統が戦国大名の六角氏・京極氏の祖となった。高綱の子孫は野木氏(乃木氏)を名乗り、日露戦争の将軍である乃木希典はその末裔だという。
宇治川。奥に宇治橋
範頼の軍は、美濃・近江を経由する現在の名神高速道路のルートをとって近江国野路(滋賀県草津市)・篠原(滋賀県野洲市)に着き、義経の軍は、伊勢・伊賀を経由する現在の新名神高速道路のルートをとって宇治橋までやってきた。範頼軍は武田信義、稲毛重成、熊谷直実など3万5000、義経軍は畠山重忠、梶原景季、佐々木高綱、平山季重など2万5000である。義仲軍は兵を集められず、範頼を待ち受ける瀬田橋に800、義経と対する宇治橋に300と圧倒的な寡兵だった。以仁王・源頼政との戦いでは、平家方の足利忠綱が渡った宇治川を、今度は源氏方の畠山重忠の軍勢が並んで渡ろうとしたとき、「する墨」に乗った梶原景季と「いけずき」に乗った佐々木高綱が現れ出た。高綱は景季に「此河は西国一の大河ぞや。腹帯ののびて(緩んで)見えさうは、しめたまへ」と言い、景季が腹帯を解いて締めている間に、先に川へと入ってまっすぐ一文字に川を渡り切ってしまった。先ほどの道中でのエピソードといい、どうも高綱は若干悪知恵が回り、景季の方はややお人好しな印象である。景季も負けじと続いて川に入ったが、押し流されて川下の方にたどり着いた。高綱は大音声で「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣よや。われと思はん人々は、高綱にくめや」と叫ぶ。義経軍の勢いに押された義仲軍は、敗れて木幡山・伏見へと落ちていった(巻第九「宇治川先陣」)。
粟津に近い義仲寺にある木曽義仲の墓
戦に敗れた義仲は、法皇を奪って平家と合流しようとしたが、既に義経が法皇を守護していて果たせず、瀬田橋で敗れた乳母子の今井兼平と大津の打出の浜で再会した。「などか最後のいくさせざるべき」と、残った300の兵を率いて範頼配下の6000の軍勢に挑むも、多勢に無勢で、たった5騎にまで打ち破られてしまう。5騎の中には、義仲の幼馴染とも側室とも言われる巴御前が含まれていた(「平家物語」ではただ「便女」=侍女とある。)。巴は「いろしろく髪ながく、容顔まことにすぐれた」美女でありながら、「ありがたきつよ弓・精兵、馬の上、かちだち、うち物(太刀・長刀)もッては鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の兵もの」だった。義仲は「おのれはとうとう(早く早く)、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死にせんと思ふなり。…木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなンどと言はれん事もしかるべからず」と言って、巴を逃がそうとするので、巴は、恩田師重という力自慢の武士を自分の馬の鞍の上に引き倒し、首をねじ切ったのを最後のいくさとして戦線離脱した。ほかの2名も討死・戦線離脱して、義仲と今井兼平の主従2騎が残った。兼平は、義仲を粟津の松原(滋賀県大津市)へ逃がしたが、義仲は泥田に馬を乗り入れて動きがとれなくなり、敵に顔面を射られて首を取られた。兼平は「いまはたれをかばはむとてか、いくさをもすべき。これを見たまへ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」と、太刀の切っ先を口に入れ、そのまま馬から飛び降りて自害した(巻第九「木曾最期」)。
■ 一ノ谷
そのころ平家は、屋島を出て海を渡り、「福原の旧里に居住して、西は一の谷を城郭にかまへ、東は生田の森を大手の木戸口とぞ定めける。其内、福原・兵庫・板やど・須間にこもる勢、これは山陽道八ケ国、南海道六ケ国、都合十四ケ国を討ち従へて召さるゝところの軍兵なり。十万余騎とぞ聞えし。一の谷は、北は山、南は海、口はせばくて奥ひろし。岸たかくして屏風を立てたるにことならず。北の山ぎはより南の海のとほあさまで、大石をかさねあげ、おほ木をきッてさかも木にひき、ふかきところには、大船どもをそばだてて、かいだてにかき、城の面の高矢倉には、一人当千と聞ゆる四国・鎮西の兵物ども、甲冑・弓箭を帯して、雲霞の如くに並み居たり」(巻第九「樋口被討伐」)。現代の地名で言えば、平家は、西は神戸市須磨区の一ノ谷町のあたりから、東は神戸市中央区の生田神社のあたりまで、北は六甲山脈、南は大阪湾に挟まれた地域を城塞化し、入り口を固めて海には大船を浮かべていた。東西は10km以上、南北は当時の海岸線を考慮すると5kmあるかどうか。おそらく平家は福原を鎌倉のような城塞都市にしようとしたのだと思うが、鎌倉に比べると福原はだいぶ細長い。
範頼・義経は法皇から「本朝には、神代よりつたはれる三の御宝あり。内侍所(鏡)・神璽(勾玉)・宝剣これ也。相構て、事ゆゑなくかへし入れたてまつれ」と命じられ、寿永3(1184)年2月に平家の追討に向かった。福原の東を攻める範頼は、武田信義(甲斐武田氏の祖)、梶原景時・景季親子、稲毛重成、小山朝政(小山氏2代)、結城朝光(小山朝政の弟で結城氏の祖)、江戸重春など5万騎を率いて、摂津国崐陽野(兵庫県伊丹市付近)に布陣した。西から攻める義経は、土肥実平、三浦介義澄・義村親子、畠山重忠、和田義盛、佐々木高綱、熊谷直実、平山季重、武蔵坊弁慶など1万騎を引き連れて丹波方面を迂回した(巻第九「三草勢揃」)。平家は、重盛の次男・資盛以下の一隊が播磨・丹波国境の三草山(兵庫県加東市)の西に布陣していたが、義経はこれを夜討にした(巻第九「三草合戦」)。
三草山で勝利した義経は、7000騎を土肥実平につけて福原の西の一ノ谷に向かわせ、自身は残る3000の兵で六甲山地の鵯越(神戸市兵庫区)に向かった。はじめ義経の軍にいた熊谷直実・直家親子は、土肥実平が向かう一ノ谷で一番乗りをしてやろうと抜け出すが、そこでは平山季重がやはり一番乗りの機会を狙っていた。熊谷親子は夜の明けないうちに平家の陣近くに行き「武蔵国住人、熊谷次郎直実、子息の小二郎直家、一谷先陣ぞや」と名乗りを上げたが、平家にまったく相手にされない。そうこうするうち平山季重もやって来たので、直実は平山が聞いているところでもう1回名乗ろうと「以前に名のッつる武蔵国住人、熊谷次郎直実、子息の小二郎直家、一谷先陣ぞや」とまた大声を出すと、平家は「いざや、夜もすがら(夜じゅう)名のる熊谷おや子ひッさげてこん」と、ようやく戦いが始まった。熊谷直実は馬を射られ、16歳の直家は左手を射られて負傷したところへ、土肥実平の軍勢7000がやってきた(巻第九「一二の駆」)。
福原の東・生田の森へは範頼の軍勢5万が攻め寄せた。こちらでは梶原景時がさんざんに戦っていったん退却したものの、息子の景季がいないことに気づいて、再び敵の軍勢の中を駆け回り、5人の敵兵に追い詰められていた景季を見事に救出した(巻第九「二度之駆」)。福原後方の山の上、鵯越に上がった義経は、鹿が崖を下って崖下の平家の陣に降りるのを見て「馬ども落いてみむ」と命じた。脚を折って転げ落ちた馬もいたが、3頭は平家の陣の建物の上に立った。義経は「馬どもは、ぬしぬしが心得て落さうには(気を付けて下れば)損ずまじいぞ。くは落せ。義経を手本にせよ」と真っ先に降りて行った。平家は驚いて船に乗って逃げようとしたが、1艘の船に大勢が乗ったので「汀(みぎわ)よりわづかに三町(300m)ばかりおし出いて、目の前に大ふね三艘しづみにけり」。その後は身分の高い人だけを乗せて、一般の兵は太刀・長刀で追い払われたが、それでも「乗せじとする舟にとりつき、つかみつき、或はうでうちきられ、或はひぢうち落されて」水際に血だらけで横たわった(巻第九「坂落」)。平家の兵は10万もいて源氏より多かったはずだが、成果主義で恩賞目当てに目の色を変えて戦う源氏の兵と、あらかじめ逃げる船を海に浮かべている平家の兵では、士気に大きな差があったのだろう。
西の一ノ谷の大将軍だった平忠度(清盛の弟・薩摩守)は、右手を切り落とされ、覚悟して念仏を唱えた後で首を討たれた。歌人らしく、矢を入れるえびらに「ゆきくれて木のしたかげをやどとせば花やこよひのあるじならまし 忠教」と歌が書かれた文が結ばれていた(巻第九「忠教最期」)。東の生田の森の大将軍だった平知盛(清盛の四男・新中納言)は、16歳の息子・知章を討たれ、自分は「井上黒」という名馬に乗って、なんとか宗盛の船に泳ぎ着いたが、船に馬を乗せるスペースはない。「此馬、主のわかれを慕ひつつ、しばしは舟をもはなれやらず、沖の方へおよぎけるが、次第にとほく成ければ、むなしき汀におよぎかへる。足立つほどにも成しかば、猶舟の方をかへりみて、二三度までこそいなゝきけれ」。この「井上黒」は河越重房がつかまえて法皇に献上したので「河越黒」とも呼ばれるようになった(巻第九「知章最期」)。同じく生田の森の副将軍だった平重衡(清盛の五男・本三位中将)は、西に向かって落ち延びようとしたが、梶原景季に馬を射られ、諦めて切腹しようとしたところを生け捕りにされた(巻第九「重衡生捕」)。
熊谷直実と平敦盛(須磨寺)
熊谷直実は、船に向かっていく武士を見つけて、戦いを挑み「とッておさへて頸をかゝんと甲をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、うす化粧して、かねぐろ也。我子の小次郎(直家)がよはひ程にて、容顔まことに美麗也ければ、いづくに刀を立べしともおぼえず」。直実は、同じ年頃の息子・直家を思い浮かべて可哀そうになり「小二郎(直家)がうす手(軽傷)負たるをだに、直実は心ぐるしうこそ思ふに、此殿の父、討たれぬと聞いて、いか計かなげき給はんずらん。あはれたすけたてまつらばや」と思ったが、土肥実平や梶原景時などがやってきたので「たすけまゐらせんとは存候へども、御方の軍兵、雲霞のごとく候。よものがれさせ給はじ。人手にかけまゐらせんより、同くは、直実が手にかけまゐらせて、後の御孝養(供養)をこそ仕候はめ」と泣く泣く首を切った。腰には錦の袋に入れた笛が差してあった。この年若い武士は、清盛の甥に当たる17歳の敦盛で、笛は清盛の父・忠盛が鳥羽上皇から賜った小枝(さえだ)の笛だった(巻第九「敦盛最期」)。この笛は「青葉の笛」とも呼ばれ、今も須磨寺で拝観することができる。また、織田信長が桶狭間の戦いの前に舞ったとされる幸若舞の「敦盛」は、この話をもとにしたものだが、例の「人間五十年、化天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり」のフレーズは、後に世をはかなんで出家した直実の思いを語ったものなので、これから戦に出かけるときに舞うのはどうなのかなと思わないでもない。
今回の1冊:梶原正昭・山下宏明校注「平家物語・三」1999岩波文庫
(13)平家物語のあらすじ(その4):重衡・維盛の最期、屋島、壇ノ浦、平家滅亡
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